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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

Stand By Me 2

 あや女の両親は、あや女のことを愛していたらしい。そして、お互いを憎んでいた。しかし、もう昔のことだ。
 幼い頃から、クリスマスに両親がそろったことがなかった。どちらか一人は、恋人と楽しい聖夜を過ごしていた。そしてもう一人は家に残って、あや女とケーキを食べた。
 それから、それぞれの誕生日、および恋人の誕生日、父と恋人の間に生まれた異母妹の誕生日には、彼らは外泊していた。
 そういうことをのぞけば、彼らは良い父親であり、母親であった。だから、あや女は高校を卒業するまで、二人の仲が結婚前から冷えていたなんてことに気づいていなかった。
 家族団欒という言葉には縁のない家庭だったけど、父も母も仕事で忙しいせいだとばかり思っていた。
あや女がすべてを知らされたのは、高校を卒業し、短大への進学が決まった日。そのお祝いの夜だった。
「もう、あや女も一人前だからな。お父さんとお母さんのことも、理解してくれるだろう?」
「こうするのが一番いいと考えたのよ。――あたしたち、あや女のためを思って」
 別れるつもりでいた頃に、あや女の命が芽生えてしまったので、二人は仕方なく結婚した。二人はあや女のために、精一杯いい父親、いい母親を演じてきた。
 しかし、それもあや女が一人前になるまでの契約だった。二人は結婚した時から決めていた。子供が一人前になったら離婚して、お互い好きな人生を送ろうと。
「あたしたち、もう充分親としての役目は果たしたと思うのよ。これからは、一人の人間として後悔のないように生きていきたいの」
 そう言った母親は、今は結婚して大阪で暮らしていた。たまに電話がくるくらいで、会うことは、ほとんどない。
 父親は、同じ札幌市内に住んでいるが、あや女のために十八年間も「愛人」だった恋人と、十年間「私生児」だった異母妹と新たに家族になったので、あや女の入る余地はなかった。
 いや、余地があったとしても入らなかっただろう。今更誰かに迷惑をかけてまで、「家族」の枠組みに入れてもらう必要はなかった。あや女はもう「一人前」なのだから。
 あや女の両親は、家族として過ごしたこのマンションを、あや女の名義にしてくれた。
 そして、家族は解散した。

 あや女が買物から戻ると、居間のテーブルの上に大きなアヤメの花束が飾ってあった。
「花瓶、使ったからな。ちゃんと花なんかくれる男いるんじゃん」
 住宅情報誌を眺めていた里見が、あや女を冷やかした。
「親父だよ」
 カードを見ながら、あや女はにこりともしないで答えた。そういえば、今日は誕生日だった。
「あや女ちゃんの誕生日にアヤメの花束くれるなんて、粋なお父さんだね」
「気障なんだよ」
「もしかして、二十五歳?」
 あや女の横に立った里見が、花の数を数えて言った。あや女は、赤くなって頷く。
「なんだ。俺と同じ年じゃん。あや女って、もっと年下かと思ってた」
「悪かったね、ガキ面で」
「若く見える、ってほめてんだよ。肌だって、ツルツルピカピカだしさ」
 そう言って、里見はあや女の頬を軽くつついた。あや女はますます赤くなり、里見の指をかわすように身を離した。その反応に、里見は意外そうな顔をした。
「あや女って、もしかして男とつきあったことないとか?」
「だったらどうなのよ!」
 久々に出た赤面症の癖が気になって、あや女は怒りたいような、泣きたいような気持ちになった。
 里見は、少し気まずそうな顔をしていたが、それ以上そのことには触れなかった。
「よーし、あや女ちゃんの誕生日祝いにごちそうしてやるよ。フランス料理でも、イタめしでも、懐石でも、なんでもあや女の好きなのでいいぞ」
「居酒屋でいい」
「……お前、俺の懐信用してないだろう」
「うん」
 里見が顔をしかめて見せたので、あや女は笑った。顔の赤いのは、少しおさまっていた。

 ススキノの洋風居酒屋で、あや女と里見はビールで乾杯した。
「二十五歳おめでとう」
「二十五を強調しなくていいよ」
 日曜の夜でも、店はかなり混んでいた。たぶん、ほとんどが大学生。一部分は高校生か、それ以下だろう。
「わざわざ花送ってくるなんて、親は遠くに住んでんの?」
「父親は市内。母親は大阪」
 一瞬不思議そうな表情をした後、里見は自分がタブーに触れたことに気づいたらしい。同情される前に、あや女は言葉を続けた。
「あたしが十八歳のときに別れて、それぞれ好きな人と再婚したのよ。あのマンションは、親たちがあたしにくれた慰謝料みたいなものなの」
「人生いろいろだね」
 そう言って、里見はビールを一口飲んだ。
「先生は、札幌の出身?」
「いんや、旭川。大学でこっちに出てきたんだ」
「どうして、アパート追い出されたの?」
 里見は言葉につまり、枝豆を口の中に放り込んだ。そして、左手で前髪を引っ張っていた。あや女は、彼の癖が自分と同じだと気づくのに、五秒ほどかかった。
「あれはなー、部屋代折半してたルームメイトがカード破産で夜逃げしちまったんだよ。借金取りはくるし、電話はじゃんじゃん鳴るし。おかげで、おかげで俺はなー」
「あー、悪かった、悪かった。やなこと思い出させて。ささ、ぐっと飲んで忘れろよ」
 里見のジョッキが空になったので、あや女は熱燗を注文した。ついでに、自分用の水割りも頼む。
「あーあ。あや女が男だったらよかったのに」
「なしてさ」
「男だったら、このまま部屋貸してもらえるもん」
 あや女はどう答えていいかわからず、水割りを一口飲んだ。同情はするけど、このまま一緒に暮らしましょうよ、なんて言うほどの仲じゃない。
 その時、あや女はレジの辺りにいる数人の男女に気づいた。遠くてはっきりとはわからないが、その中の一人、髪の長い少女に見覚えがあった。
「んー、なした?」
 あや女の視線を追って、里見が振り返った。少女は支払いを連れの男たちに任せて店を出ていた。が、里見は彼らを見て顔をしかめた。
「あいつら、ガキの分際で」
「もしかして、教え子?」
「そ。俺に気づいてなきゃいいんだけどな。あいつら、うるさいから」
 そうか、とあや女は納得した。異母妹はちょうど高校生で、里見がその先生で。そういう偶然もありえるんだ。世の中って狭い。
 しかし、そのことについて里見にはなにも言わなかった。

 真夜中、あや女は一人きりの部屋で、俊成の夢を見ていた。
 俊成とは同期入社。彼は大卒なので二歳年上。ソフトスーツがよく似合っていて、眼鏡の奥の瞳が優しそうに笑うのを見るのが、とても好きだった。
 だけど、自分からはなにも言えなかった。
 赤面症の癖が気になったし、親を見て、男と女の関係に幻滅していたのかもしれない。
 独りぼっちになったあや女は、暖かい家庭が欲しかった。でも、手に入れる前から、それは幻想に過ぎないことが、わかりすぎるほどわかっていた。
 だから、あや女と俊成の関係は単なる会社の同僚でしかなかったし、偶然から香苗を引き合わせたあとは、彼女の友達でしかなかった。
 それなのに、あや女はよく俊成の夢を見た。夢の中の彼は、もはや現実の彼ではないけれど。
 夢の中の俊成は、あや女に無償の愛を捧げてくれる。それも一生。
 そんなこと、絶対起こるわけがないとわかりきっているのに。



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